叱れる親。「蘇る昔の教え」

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妥協しない夏期講習の概要をH.Pにアップした頃に、今回の中間テストの結果が却ってきて、計画通り取り組んで成果が出た者、甘さが抜けず自堕落な勉強をして結果が思わしくなかった者、悲喜こもごもの状態となりました。

 

 

今回取れなかった子に共通しているのが(今回というよりいつもですが)、オレはできる!と過信して計画を大甘につくり、宿題も大甘な採点ばかりし、遂行も「オレはたぶん取れるはずだ」と極度に過信していた子ほど、悲惨な結果になってしまっています。

 

 

いつも言っていることですが、「自信を持つ」のと『自意識過剰』は紙一重の関係です。

 

 

この数年は特に、褒めて伸ばす風潮が強いため、やはり打たれ弱い上にプライドの高い自意識過剰な子も少なからず見受けられます。

 

 

私は褒めて伸ばす教育は良いと思っていますが、お子さんに嫌われたくない、友だち親子でいたいという理由で、根拠もなく、やたらめったら褒めている親御さんに対しては面談等でかなり厳しく言わせてもらっています。

 

 

ひとまず、今回のテストで努力不足による散々な結果に陥った塾生については、「こんな思いするなら死んだほうがマシだ…」と思えるぐらいの、村上とのサシでの面談が待っています。

 

 

もちろん、無罪放免でタダで帰すわけないので、骨の髄まで懺悔と後悔を塾生ひとりひとりに染み込ませて、大甘な「心」を書き換えてもらいます。

 

 

今日は、yahoo!ブログより石川幸夫さんの教育ブログの一記事をご紹介します↓

 

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「子供にとって、親という存在は…」

イメージ 1
先日、埼玉県の高校サッカー部で体罰事件が発覚しました。今回は映像があり、体罰という言葉から想像する光景とは程遠い、暴力という言葉の方が相応しい状態が映し出されていました。運動部のコーチや監督にこうした暴力で支配する傾向が多いように感じます。ただ、暴力行為のみに焦点をあてるのではなく、時に、教師という立場で子供に暴力を振るう子供達側にも焦点をあてる必要があるように思います。
今、教育現場では、先生の言うことを聞けない子供達が数多くいます。先生は、理性を持って子供達を指導し、諭し、時に叱ります。子供の頃の話しをして恐縮ですが、先生は両親が頭を下げる存在で、尊敬の対象でした。
誰もが先生の話を素直に聞き、敬っていました。時代の変化は、教育機関をサービス業として捉えられた時期もあり、民間の教育機関(塾など)では、先生が頭を下げることも珍しくなくなりました。親子間も、友達のような関係が良好で、物わかりの言い親として、次第に子供を”叱る”ことがなくなって来ました。
 イメージ 2
世間では、叱らない子育て法が流行し、益々、大人達は子供を叱る事ができなくなって来ました。大人の怖さを知らない子供達は、その後、成人し会社に勤めるようになると、それまでの環境とは一変し、見習い期間を過ぎる入社3ヶ月くらから、社会の洗礼を浴びるようになります。
叱られる経験値が乏しい子、それは、事の善悪においても,マナーにおいても、また、人との付き合い方においても、社会的スタンダードな考え方ではなく、自分の勝手な捉え方や判断であることが多いのです。
子供の行動や考え方は、当たり前の事ですがまだまだ未熟で、特に大きな判断ミスや行動を取ることがあります。”叱る”という行為は、目上である大人の務めです。ここで大切なことは、「理解と気付き」です。幼児期に、家庭でどのような躾をされてきたのか、どのようなプラットホームに立っているのか、それが人としての器となります。
私は、亡くなった両親からは、「自分を叱ってくれる人を持て」と言われてきました。
挨拶、言葉遣い、姿勢、そして、大切なことは素直に人の話を聞くことだと言われてきました。
今、小学生の子供達を見ていると、わがままな子を沢山見かけます。まずは、言葉遣いでその子の生育歴が理解できます。アニメの主人公の口調で話し、先生に対しても、俗に言う”ため口”、問題が解けなくなるとすねて、「わからない!」を連発する。頭の良し悪しではなく、子育ての過程で、我慢すること、やり続けるとこ、人の話を聞くことを学んでこなかったツケは大きいと思います。
乳幼児期の子育ては、大切な人としてのプラットホーム(土台)を親子で形作る時期だと思います。感情的に叱るは”怒る”へと変化してしまいます。幼い時期であれば、まず、悪しき行為には「いけません!」と短く、そして、目を見てしっかり伝えます。この時、子供と同じ目線で行います。
教育現場にいると、時代の流れと共に子供達の変化を肌で感じます。数年前、中学1年生の女子に、授業中の態度や言葉遣いがあまりにもひどいので、注意し、諭した事があります。しかし、「先生!時間が無駄だからそんな話し辞めてプリントしましょうよ!」、諦めて授業を始めると、直ぐに「わかんない!」を連発、ついには「先生!私が辞めると困るんじゃない?」と脅迫されてしまいました。それでも、半年ほど頑張りましたが、私の力及ばず退塾していきました。その後、友人に尋ねると、偏差値も最低ながら合格したと聞きました。
こうして、高学年や中学生を指導していると、幼児期に出会いたかったと思わせる子供達に数多く出会います。私もベテランと呼ばれる年齢になりましたが、いまだに出会った全ての子供達を救えていません。と言うより、「救う」という考え方が自分自身の”おごり”と気付きます。神ではないのですから。
出会った子供達から、自分のいたらぬ所を沢山教えて貰っています。こんな経験が、今の自分を突き動かす原動力になっています。「わがままな子」「言葉遣いの悪い子」は、間違いなく子育ての中で、そのように育てられてきたのだと思います。
すると、その先の人生で子供自身が辛い目に合うことになります。「親という存在は、最後まで子供を見捨てずに叱ってくれる対象である。」と私は思います。同時に、教え子達にも、親のような存在でありたいと自分自身に言い聞かせています。
叱らないで育てるという考え方は、けして、叱ってはいけないということではないはずです。叱ると言う子供に対する行為は、子供にとって、生活の中の学びではないでしょうか。
子供達は、未熟さ故、多くの間違いを犯します。それを指導していくのが子育ての中で大切な「しつけ」だと思います。だから、繰り返し、繰り返し教えます。それを,子供は学びとるのです。これを幼児期に行う事で、身に付いたふるまいが社会に出てから自然と現れてくるのです。
昔の人は、これらを大切な人間の要素として扱ってきました。それが、現代に「非認知能力」という難しい表現で蘇って来たのです。

 

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色々と考えさせられる内容でしたね。

私たち指導する側も常に学ぶことは続くわけですが、それ以上に子どもの在り方が社会の変化とともに大きく変わってしまったことも痛感させられます。

 

 

多くの親御さんが「叱る」ことから目を背けず、体を張ってお子さんに善悪の区別を教えていく、示していくだけでも、お子さんの自立性は大きく変わってくるかもしれませんね。何事においても、厳しさは必要だと私は考えていますので。

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